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大東亜戦争での米豪軍の実態を知ろう

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今日12月8日は、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発の真珠湾攻撃の日ですね。

さて、
『大東亜戦争での聯合艦隊司令長官 山本五十六は、米国のスパイであり、真珠湾攻撃は、米国の描いたシナリオに沿い、山本五十六が実践したものであった』と私が言うと、『YES』と答えた人は外国の資料を読んでいますね。

『NO』と答え、『何と捏造されたことを言う気違い』と思う人は、戦後から現在まで続くGHQ(CIA)のプロパガンダを何の疑いもなく受け容れているのでしょうね。

                      ☆

戦時中、日本の軍人は東条英機陸相(当時)が出した戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」という一語をどう解釈するかも同じことです。


                       ☆

カリフォルニア大学 ダワー教授

「連合軍が日本兵を捕虜にせず殺害しまくった例は枚挙に暇がない。」

「連合国側の虐殺行為は何ら罪を問われず、免責されたままだ。
そして、補虜虐待について言えば、それでなくとも物資不足に喘ぎ、補虜を受け入れるだけの設備も食糧も不足していた日本側がそれでも交戦法規を忠実に守って、大量に投降してくる敵兵を捕虜にしたからこそ様々な問題が生じたのである。 」

ダワー教授のいう様々な問題とは?

交戦法規を守らず日本の捕虜も広島・長崎のみならず何十万人という民間人をも虐殺した連合国軍が、その蛮行を隠蔽するために、GHQ(CIA)その蛮行の報道を禁じ、更に朝日新聞を使って、日本軍は蛮行であるとするために『強制連行従軍慰安婦』と『南京虐殺』をでっちあげたのである。


                      ★

以下は、大東亜戦争での南方での記録や証言です。
米軍による日本人虐殺の元米軍兵等の証言は、沢山ありますが、今回は、その一部と、日本の証言一つを掲載しました。

目をそむけず、事実を知ろう!


                      ☆
 
イメージ 1
「翼よ、あれがパリの灯だ!」の

孤高の鷲 ― リンドバーグ第二次大戦日記〈上・下〉 (1974年)

チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ (著), 新庄 哲夫 (翻訳)

◇下巻「戦時下の南太平洋にて」より抜粋 

(396ページ8行目)
 無論、このような事(米軍・豪軍の蛮行)が行われているのを、自分は知っていた。

しかし、よしんばそれが第三者の撮影した写真を見て得た知識であっても、自らその現場に立ち、この眼で見、この耳で聴き、五感で感じた場合とはわけが違う。

一種、異様な困惑が襲ってきた。
以前にかかる困難を覚えたのはどこでだったろうか。

南太平洋でか。そうとも、ビアク島の洞窟で日本兵の遺体が腐りかけるのを見掛けたときだ、爆撃跡の穴に埋まる日本兵の遺体の上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにまだ緑色を呈する日本兵の頭蓋骨が飾り付けてあるのを見掛けたときだ。

 かりそめにも人間が―文明人が、かかる次元まで堕落できるとは考えられないことのような気がする。にもかかわらず、彼らは現実にこうして堕落したのである、


(1944年4月~9月)

*6月21日水曜日
 日本兵士殺害に関する将軍の話一数週間前のことだが、最前線のさる技術科軍曹が、もう2年以上も太平洋地域で、戦闘部隊と行を共にしながら、ついぞ実戦に参加した経験がなく―帰国する前にせめて一人だけでも日本兵を殺したいと不平を漏らした。
 
軍曹は敵の地域内に進入する偵察任務に誘われた。軍曹は撃つべき日本兵を見つけられなかったが、偵察隊は一人の日本兵を捕虜にした。

…「しかし、俺はこいつを殺せないよ!やつは捕虜なんだ。無抵抗だ」「ちえっ、戦争だぜ。野郎の殺し方を教えてやらあ」偵察隊の一人が日本兵に煙草と火を与えた。

煙草を吸い始めた途端に、日本兵の頭部に腕が巻き付き、喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで切り裂かれた」のだった。
 
*6月26日月曜日
 8時38分、第三滑走路からP38で離陸し、ニューギニアの密林を越えてボランデイアヘという直線コースの針路をとる。天気良好。

小屋の壁の一つに、絹地の日本国旗が三枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。その一枚は記念品(スーベニア)として10ポンド(33ドル)の値打があると、ある将校は説明した。日本軍将校の軍刀を所持する男は250ポンドなら譲ってもよいと言った。
 
●談たまたま捕虜のこと、
日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。
「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、将校の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」

「*****では2千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった100か200だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。
 
もし戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」「あるいは両手を挙げて出て来たのに撃ち殺されたのではね」と、別の将校が調子を合わせる
 
*六月二十八日水曜日
 第475飛行連隊の将校連と夕食、夜を共に過す。話題は今夜もまた、戦争や捕虜、記念品のことに及ぶ。わが将兵の態度に深い衝撃を覚えた。

敵兵の死や勇気に対しても、また一般的な人間生活の品位に対しても、敬意を払うという心を持ち合わせておらぬ。…略奪したり、ある議論の最中に私は意見を述べた。
 
日本兵が何をしでかそうと、われわれがもし拷問を以て彼を死に至らしめれば、われわれは得るところが何一つ無いし、また文明の代表者と主張することさえ出来ないと。

「ま、なかには奴らの歯をもぎとる兵もいますよ。しかし、大抵はまず奴らを殺してからそれをやっていますね」と、将校の一人が言い訳がましく言った。
 
*7月24日月曜日
 …十分後、ビアク島のモクメル飛行場に着陸。…午後、クロード・スタップス少佐ら数人の将校とジープでモクメル西方の洞窟へ出掛けてみる。

日本軍が最も頑強に堅守した拠点の一つだ。丘の斜面を降りて行くと、峠に差し掛る。そこには一人の日本軍将校と、10人か12人の日本軍兵士の死体が、切り刻まれた人体だけが見せるような身の毛もよだつ姿勢で四肢を伸ばしたまま、横たわっていた。
 
…頭蓋骨を覆う僅かな肉片だけが残っている。ある場所では一個の遺体に二つの首が並んでいるかと思えば、他の場所では遺体に首が無かった。

なかには四肢がバラバラになり、身体のかけらしか残っておらぬ死体もあった。そして同行の将校が言ったように、「歩兵はお得意の商売にとりかかったようだ」。つまり、戦利品として金歯を悉くもぎとったというのである。
 
洞窟群へたどり着くまでには山道を横切り、もう一つの丘を登らねばならぬ。山道の片側にある爆弾で出来た穴の縁を通り過ぎる。

穴の底には5入か6入の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。
 
敵を殺す、これを理解できる。戦争の欠くべからざる要素だ。敵を殺戮する最も効果的ないかなる方法も正当化されるだろう。

しかし、わが同朋が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸糞が悪くなる。


 *8月6日日曜日
 明りのいくらか貧弱なテント内で空箱や簡易ベッドの端に腰掛けたまま、日本人捕虜の問題を語し合った。私は自分の考えを述べた原文は、だが誤植だと思われるので。

でもよい相手を捕虜に出来るいつ如何なる時でも投降を受け容れないのは間違いだ、投降を受け容れればわれわれの進撃は一段と速くなり、多くのアメリカ人の生命が救われるであろう。
 
とにかく投降した場合は必ず殺されると考えるようになれば、彼らは当然踏みとどまり、最後の一兵まで戦い抜くだろう-そして機会があるごとに捕虜にしたアメリカ軍将校を殺すであろう、と。
 
大多数の将校は私の意見に同意したが(さほど熱烈に同意したわけではないが)、しかし、わが方の歩兵部隊はそのように考えてはおらぬようだと言った。

「たとえば第42連隊だ。連中は捕虜を取らないことにしている。兵どもはそれを自慢にしているのだ」
 
「将校連は尋問するために捕虜を欲しがる。ところが、捕虜1名に付きシドニーヘ2週間の休暇を与えるというお触れを出さない限り、捕虜が一人も手に入らない。お触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入るのだ」

「しかし、いざ休暇の懸賞を取り消すと、捕虜は一人も入って来なくなる。兵どもはただ、一人もつかまらなかったよとうそぶくだけなんだ」

「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に送らねばならなくなったときの話を知ってるかね?あるパイロントなど、僕にこう言ったものだ。

捕虜を機上から山中に突き落し、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」

「例の日本軍の野戦病院を占領したときの話を知ってるかね。わが軍が通り抜けたとき、(入院していた日本兵の)生存者は一人も残さなかったそうだ」

*8月14日月曜日
 午後は将校連と話をしたり、原稿の執筆に費やしたりする。ヌムフオール島でまだ続いている戦闘情況を訊いてみた。

日本軍の孤立した拠点が幾つか残存しており、その一つがキャンプから2マイル半のところにあるという。

岡地区の歩兵部隊を訪問できないものかと持ちかけても、積極的な反応には接せず。戦闘飛行連隊管制班の連中が自発的に定期的なパトロールを実施し、相当数の“ニップス”を殺したと将校たちは語る。

そのリーダー格は管制班に所属するチェロキー・インディアンの混血であった。

「連中はちょいちょい、自分たちで殺したジャップの人腿骨を持ち帰り、それでペンフォルダーとかペーパー・ナイフとかいったような品を造っている」。

*8月30日水曜日
 …タラワは多くの血が流された戦場にしては驚くほど小さな島だ。同行の士官は第一波が上陸に成功してから間もなく到着したのだが、海兵隊は日本軍の投降をめったに受け付けなかったそうである。

激戦であった。わが方も将兵の損害が甚大であった。敵を悉く殺し、捕虜にはしないというのが一般的な空気だった。

捕虜をとった場合でも、一列に並べ、英語を話せる者はいないかと質問する。
英語を話せる者は尋問を受けるために連行され、あとの連中は「一人も捕虜にされなかった」という。(注)全員具虐殺された。

*9月9日土曜日
 ケネス・コリヤー中尉、マッコール大尉らと昼食。
話題は何となくロイ島の侵攻作戦と占領当時のことに及ぶ。

将校の話によれば、穴の中の遺体を「ブルドーザーにかける」前に、何人かの海兵隊員が遺体の間に分け入り、ポケットを探ったり、金歯探しに棒で口をこじ開けたりした。

金歯を仕舞い込む小袋を持っている海兵隊員さえいた。その将校はさらに、耳や鼻を切り落されている日本軍の戦死体を幾つか見たとも言った。

「兵が耳や鼻を切り取るのは、面白半分に仲間に見せびらかすためか、乾燥させて帰還するときに持ち帰るためですよ。

日本兵の首を持っている海兵隊員まで見つけましてね。頭蓋骨にこびりつく肉片を蟻に食わせようとしていたのですが、悪臭が強くなり過ぎたので、首を取り上げねばなりませんでした」。行く先々で聞かされる似たり寄ったりの話だ。

*9月14日木曜日
 …オアフ島へ向う途中、一時間ばかり操縦悍を握ってみた。0時28分に着水。到着したとき、海軍航空輸送部事務所にはたまたまジョン・ヤング大佐ら数名の海兵隊将校が居合わせていた。大佐からエワで一夜を過すようにと招かれる。

通関を済ませ、車でエワの基地に向った(税関吏は荷物の中に人骨を人れていないかと質問した。日本兵の遺骨をスーベニアとして持ち帰る者が数多く発見されたので、相手構わずにこのような質問をせねばならないのだと言う。
イメージ 2


税関吏はまた、手荷物の中にまだ「緑色をしている」日本兵の頭蓋骨を二個も忍ばせていた男を発見したことがあるとも言った。

(注)米国内では、帰還兵が戦地から持ち帰った日本兵の骸骨が販売されていた。


(参照)

                      ★

『我ら降伏せず サイパン玉砕戦の狂気と真実』
田中徳裕著(立風書房 昭和58年)
http://amzn.to/1czuIJ9

【サイパン】米兵、婦女子らに残虐行為 
昭和19年7月9日、元陸軍大尉(独立混成第47旅団)の田中徳裕(のりすけ)氏らが山の中腹の洞窟から眼下のバナデル飛行場で繰り広げられた惨状を証言

昭和19年6月15日午前8時45分、チランカノアの海岸に、約3個師団と推測される敵兵が上陸してきた。そこからサイパン島の陸上戦が始まった。

当時はサイパン島には砂糖工場があり日本人も居住していた、民間人がいたことでかなり悲惨な結果になってしまった。

7月9日、このころには日本軍の組織的な抵抗は無くなり掃討戦の様相をあらわしてきた。

敵は流ちょうな日本語でジャングル地帯に童謡を流し投降を促す放送を流し始めた。
日本軍は組織的な抵抗は捨て、洞窟に、数人、あるいは数十人ぐらいが生き残り潜んでいた。

米軍は日本人に対し、戦争が終わりサイパン島は米軍の手に落ちたこと、隠れている日本人に投降を勧めました。

「投降すれば、立派な衣服や、美味しい食料も充分に与えます。
もはや犬死にすることはない、今や死んでも花実は咲きません。みなさんの投降を待っています」

その後に、兎追いしかの山、と続く童謡を流し始めました。
これには潜んでいた日本軍も参ってしまった、

その後、桃太郎、天然の美、荒城の月などが流されたそうです。
「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出て来てください。」

投降を勧める放送は再三繰り返されたが日本軍は、その放送を頭から否定した。むしろ敵愾心がわいてきたそうです。

投降呼び掛けの放送とはうらはらな、人道上許し難い残虐な行為をしだした。
日本軍はバナデル飛行場を見下ろせる洞窟にいて、その距離1キロ位先で展開された。

そこへ、三方から追い込まれた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。
幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。
婦女子が全員、素っ裸にされた。

そして、無理やりトラックに積み込まれた。
そして無理矢理積み込まれた順にトラックは走り出した。
婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。 

その声がマッピ山にこだまし、次つぎとトラックは走り出し、彼女たちの声は遠ざかっていた。
なんたることをするのだ、小銃だけではどうすることもできず、此方の位置も知れてしまう。
この悲劇をただ見守るしかなかった。
(この婦女子はその後一人として生還しなかった)

婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。
ガソリンがまかれ、火がつけられた。
飛び出してくる老人子供たち。
その悲鳴。

「米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい」
の投降勧告の意味は一体なんだったのか。

常夏の大空をこがさんばかりに燃え上る焔と黒煙。
幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。 
残虐な行為は凄絶をきわめた。

火から逃がれ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。

かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛ばしたり、
銃で突き飛ばしては火の海へ投げ込んでいる。 

二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊を見つけ出し、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げ込んだ。
「ギャッ」という悲鳴。

人間がまるで蛙のように股さきにされ殺されてゆく。

彼らは、それをやっては大声で笑った。
無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。


                      ★

『人種偏見』
カリフォルニア大学 ダワー教授著

連合軍が日本兵を捕虜にせず殺害しまくった例は枚挙に暇がない。

例えば、すでに米軍の支配下にあった島に、仲間とはぐれた日本兵を一人放ち、
その兵士が身の安全を求めて狂ったように駆け出すところを銃の標的として楽しんだ。

ペリリュー島や沖縄の激戦地で、米軍兵士は日本兵の死体から手を切り取って戦果のトロフィーとする、金歯を漁る、死体のあいた口めがけて小便をする、恐れおののく沖縄の老女を撃ち殺し、「みじめな生活から逃れさせてやっただけだ」と気にもとめない、といった具合である。

「ブーゲンビルで投降しようとして殺された負傷兵の場合のように、日本兵殺害の中には上官の命令下に行なわれたもの、あるいは少なくとも上官が事後承認を与えたものがあった。

たとえば日本の輸送船を沈め、その後一時間以上もかけて何百何千という生き残り日本兵を銃で撃ち殺したアメリカの潜水艦艦長は、この虐殺をその公式報告書に記録し、しかも上官から公の賛辞を与えられている。」

「連合国側の虐殺行為は何ら罪を問われず、免責されたままだ。
そして、補虜虐待について言えば、それでなくとも物資不足に喘ぎ、補虜を受け入れるだけの設備も食糧も不足していた日本側がそれでも交戦法規を忠実に守って、大量に投降してくる敵兵を捕虜にしたからこそ様々な問題が生じたのである。 」

                      ★

太平洋地域担当の従軍記者エドガー・L・ジョーンズは、
一九四六年一昭和二十一年一の『アトランティック・マンスリー』誌に、

「われわれは捕虜を容赦なく撃ち殺し、病院を破壊し、救命ボートを機銃掃射し、
敵の民間人を虐待、殺害し、傷ついた敵兵を殺し、まだ息のある者を他の死体とともに穴に投げ入れ、死体を煮て頭蓋骨をとりわけ、それで置き物を作るとか、または他の骨でぺーパーナイフを作るとかしてきたのだ」と書いた。

これらの陰湿な虐殺行為は政府によって公認されたこともあった。

                      ★

                                  つづく





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